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二枚橋地区に関山登り口の立派な石碑が建っている。当ページではこの場所を二枚橋登山口とする。
二枚橋登山口から橋を渡り、吉ヶ沢地区を南進すると左手に関山駐車場が見えてくる。
砂利敷きだが普通乗用車なら15台くらいは収容できる立派なもの。
駐車場から参道(車道)を50mくらい進むと白河山岳会と関山奉賛会の皆さんが設置した「烏天狗の道」の看板が立っている。
看板の右手奥には滝不動尊が鎮座している。
ここで車道をそのまま直進する「初級コース」と、右へ入り阿夫利神社を経由する「中級コース」(烏天狗の道)に分かれる。
今回は「初級コース」上って「中級コース」を下ることとするが、
雨の日などは滑りやすい「中級コース」を上りにした方がいいだろう。関山駐車場から車道を20分ほど登れば金明水。
右手に剣を持った勇ましい不動明王の石像が建っている。
近くには「イワウチワ群生地」の看板。金明水の裏手に続く道を入るようだ。
金明水からさらに15分ほど登ると山門跡。立派な下馬碑が建っている。
ここの広場は車道の終点で駐車場にもなっているが、ここまで車で登るには四駆でないときついだろう。
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山門跡からコンクリート敷きの参道を登って行く。
左にカーブしながら社務所の前を通り過ぎ、今度は右にカーブしながら登って行くと境内。
右手には鐘楼、奥には観音像と満願寺。
山頂は満願寺の裏側である。無常の現世、古い石祠は相変わらずだが10年ほど前に訪れた時にはなかった松平定信公の歌碑が建っていた。
三等三角点の標石は五重塔のような比較的新しいお墓の脇にある。
[ 参考 ] ■満願寺(成就山光明院満願寺)は天平二年(730年)に聖武天皇の勅使により行基が創立したという古刹。
奥の細道三十三霊場の第三十三札所、福島八十八ヶ所霊場の第二十二番札所となっている。
■鐘楼の中の銅鐘は寛文4年(1664年)に鋳造されたもので、国の重要美術品(工芸)に指定されている。
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小広い山頂からは、西に那須連峰や甲子連山、北西には白河市中心市街地、
北に吾妻連峰や安達太良連峰、南には八溝山を望むことが出来る。
条件がよければ南西(215度)の方角に富士山も望めるようだ。
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復路は「烏天狗の道」(中級コース)を下る。
観音像の近くには指道標がある。満願寺の裏手一段下のお墓の近くを通る。
お墓の直ぐ下は急なのでロープを頼りに慎重に下る。その後は杉林や雑木林の中の快適な登山道である。
やがて沢沿いの平坦な道になり砂防ダムが見えてくる。
砂防ダムを越えると滝不動尊。すぐ脇には落差1mほどの斜滝がある。砂防ダムが造られる前はどうだったのだろうか。
ここから沢にかかる橋を渡れば往路の車道に戻る。ここから50mほど下れば関山駐車場。
[ 参考 ]
満願寺の裏手のお墓は歴代住職の廟所であろうか。
墓塔の中には鎌倉時代のものと思われる無縫塔(卵塔)も見られる。
割れたり倒れたりしている墓石も多い。
明治新政府により出された神仏分離令による廃仏毀釈運動で寺は荒廃したと聞くが、その時の名残りだろうか。
それとも過去に何度かあったという山火事や戦禍によるものだろうか。
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関山の南麓の内松(ないまつ)地区にも登山口がある。
内松公民館から指道標に従って進むと、左手に稲荷神社が見えてくる。
車道脇には「せき山道」の石標が建っている。
坂を上ると広い新しい道に出合う。左へ30mほど進んだ所が内松登山口。
乗用車3台くらいの駐車スペースがある。
登山口には六地蔵と聖観音の石像がずらりと並んでいる。
これからの登山の安全を祈り、竹藪脇の登山道(参道)を進んで行く。
登山口を入ってすぐ左手の沢には水場があるが、水量が少ないのであまりあてにしない方がいいだろう。
竹藪の脇を通り抜けると、杉林の中の薄暗い道。
斜度が段々急になり九十九折りの道へ変わるが、登山口から35分くらいで山門跡に出る。
山門跡には下馬碑があり、二枚橋登山口からの車道の終点でもある。
ここでは二枚橋(車道)や硯石、郷渡(丸沢)からのコースを合わせる。
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硯石登山口の近くには江戸時代中期に彫られたという「硯石磨崖三十三観音」がある。三十三観音は観音菩薩が人々を救済する為に
姿を変えて現れる三十三の観音様で、彫った人々の当時の思いが時を越えて伝わってくるような気がする。
時間が許せば立ち寄っていただきたい。
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関山の南南西4kmほどの所には史跡として有名な「白河の関跡」があるので、ぜひとも立ち寄っていただきたい。
空堀や土塁の跡が1200年前の当時を偲ばせる。
樹齢800年という杉の大木「従二位の杉」もこの地の歴史を物語っている。
[ 参考 ] 延喜式内社の社格を持つ白河神社の境内が白河の関跡と断定されたのは江戸時代後期、松平定信公の考証による。
1800年(寛政12年)には古関蹟の石碑が建てられた。芭蕉と曽良がここを訪れてから百年余り後のこと。
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