福島の山々 >> 北西部 >> 束松峠 (約430m)  
会津坂下町と西会津町の境界に位置する。江戸時代に会津と越後を結び
人と物資の交流に重要な役割を担った越後街道(会津街道)の難所の一
つ。越後街道は1611年(慶長16年)の会津地震により高寺山塊の
勝負沢付近が被害を受け通行困難になったことから、この束松峠を通る
ルートに変更になった。明治時代の会津三方道路事業により藤峠を経由
するルートに再度変更になるまで、300年近くにわたり人々の往来を
見守ってきた歴史の峠。現在は西会津町と会津坂下町を結ぶ県道341
号線(別舟渡線)の未開通区間となっている。高寺山鳥屋山と合わせ
て登るのもいいだろう。

● 福島の山々 ・・・ 北西部の地図  登山ルート
● マピオン ・・・・ 束松峠の周辺地図
● 国土地理院 ・・・ 束松峠の周辺地図 
● 市町村のサイト ・ 会津坂下町  西会津町
● 観光協会等 ・・・ にしあいづ観光交流協会
● その他 ・・・・・ 宿泊施設・旅行・観光  登山用品
            ガイドブック
束松峠

    交通:JR只見線「会津坂下」駅または「会津坂本」駅より、タクシー利用
マイカー:磐越自動車道利用の場合、「西会津」ICまたは「会津坂下」ICが近い
所要時間:天屋集落(5分)三本松(15分)地辷点(5分)一里塚(5分)子束松跡(3分)束松峠
他登山口:軽沢集落側から


高寺より只見川に架かる片門橋を渡り、束松ポンプ場を少し過ぎて天屋・本名集落に入る手前に「束松事件」の現場がある。 高寺ふるさとを興す会による案内板が立っている。 明治2年7月12日、明治新政府の役人である久保村文四郎(旧越前藩士)を 旧会津藩士の高津仲三郎、伴百悦、井深元治、武田源三の四名が待ち伏せて殺害にした。 久保村は民政局筆頭として戊辰戦争後の会津で施政の任務を行っていたが、 旧会津藩の藩士や住民に対する侮蔑や誹謗中傷が目に余る程だったという。

束松事件の現場 案内板 場所は束松ポンプ場近く
束松事件の現場 案内板 場所は束松ポンプ場近く


天屋・本名集落の西外れに束松峠への入口がある。指道標には旧越後路と新道が示されている。 車一台であれば入口付近の路肩にどうにか駐車できるだろう。 新道には車輪の轍の跡があるので軽四駆であれば或る程度通行可能かもしれないが、 今回はここから旧越後路を上り、新道を下るコースを歩いて往時を偲ぶことにした。 旧越後路は江戸時代の道、新道は明治時代になってから整備された道で、所々で重複・交錯する。 六地蔵を右に見送り山王神社を左に見送り、側溝のある広く立派な県道未開通区間という印象の道を登っていくと、左手に三本松。 枯れた枝を切断した為に痛々しい姿である。地球温暖化や酸性雨などによる環境変化が影響しているのかもしれない。 案内板があるので参考にしたい。

天屋・本名集落側入口 指道標 旧越後路
天屋・本名集落側入口 指道標 旧越後路
聖徳太子と六地蔵 山王神社 三本松
聖徳太子と六地蔵 山王神社 三本松
三本松付近は立派な広い道 解説板 案内図
三本松付近は立派な広い道 解説板 案内図


「ひこ束松」の指道標に従い、三本松のところから旧越後路を離れて200mほど南進するとひこ束松が見えてくる。 束松の名前にふさわしい見事な枝ぶりのアカマツである。県指定天然記念物に選定されている。 通常のアカマツとDNAが異なるのであろうか。ひこ束松の右奥には鳥屋山が顔を出している。 ここからまた三本松まで戻り、旧越後路を登って行く。

ひこ束松への指道標 高寺山塊の先に磐梯山 案内板
ひこ束松への指道標 高寺山塊の先に磐梯山 案内板
ひこ束松の柱標 ひこ束松 (右奥は鳥屋山) 三本松の所へ戻る
ひこ束松の柱標 ひこ束松 (右奥は鳥屋山) 三本松の所へ戻る
旧越後路は左へ 旧越後路は右へ 指道標
旧越後路は左へ 旧越後路は右へ 指道標


心地いい雰囲気の旧越後路を登ってゆくと、突然と道が途絶える。 大正14年2月に地滑りが発生した地点である。「本名八百刈の地辷点」というらしい。案内板がある。 ここからは少しの区間、登山道のような道を登る。 やがて電力線の鉄塔が建つ小ピークに至る。眺望がいい。ここには一対の一里塚が残っており、旅人で賑わった往昔が偲ばれる。 鉄塔や高圧電線が無ければ、タイムスリップした感が味わえることだろう。

旧越後路 地辷点 案内板
旧越後路 地辷点 案内板
南南西(対の一里塚) 南西(飯谷山) 西南西(束松峠)
南南西(対の一里塚) 南西(飯谷山) 西南西(束松峠)
北東(飯森山) 東北東(高寺山) 東(磐梯山)
北東(飯森山) 東北東(高寺山) 東(磐梯山)


一里塚から北西に延びる道を200mほど進む。新道の洞門への道を右に見送り左に進み、今度は新道を左に見送り右へ進む。 200mほど進むと子束松の跡がある。残念ながら灌木の中に大きな切り株が残るのみ。

指道標 子束松跡付近 子束松跡(写真上部の切り株)
指道標 子束松跡付近 子束松跡(写真上部の切り株)


子束松跡から200mくらいで束松峠。四阿があり会津盆地の眺望もいいので大休止といきたい。 会津坂下町教育委員会の案内板によると、江戸時代から昭和30年代までここには二軒の茶屋があり、焼き鳥やあんこ餅が名物だったという。 松平容保に仕え戊辰戦争では会津藩の軍事参謀として藩兵を率いた秋月悌次郎が、敗戦後に越後に西軍参謀の奥平謙輔(長州藩士)を訪ねての帰途、 この峠で『行くに輿無く帰るに家なし・・・』という詩を詠んだそうである。 帰りは、新道を通り天屋・本名集落まで戻る。時間があれば束松洞門へ立ち寄るのもいいだろう。

[ 参考 ] 明治維新からまだ間もない1878年(明治11年)6月29日、 英国の女性旅行家イザベラ・バードもこの束松峠を通ったかもしれない。 6月から9月までの3ヶ月をかけて 日光から会津を通り新潟に抜け山形・秋田・青森・北海道を旅し、紀行文『 Unbeaten Tracks in Japan 』(1885年)と題して出版した。 ご興味のある方は、「イザベラ・バード 『日本奥地紀行』 福島県会津地方での行程」をご覧願いたい。

旧越後路 束松峠 案内板
旧越後路 束松峠 案内板
東(高寺山、磐梯山) 南東 南(小野岳、博士山)
東(高寺山、磐梯山) 南東 南(小野岳、博士山)
鳥屋山山頂を望む 帰りは新道 天屋・本名集落へ戻る
鳥屋山山頂を望む 帰りは新道 天屋・本名集落へ戻る



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