■ |
高寺より只見川に架かる片門橋を渡り、束松ポンプ場を少し過ぎて天屋・本名集落に入る手前に「束松事件」の現場がある。
高寺ふるさとを興す会による案内板が立っている。
明治2年7月12日、明治新政府の役人である久保村文四郎(旧越前藩士)を
旧会津藩士の高津仲三郎、伴百悦、井深元治、武田源三の四名が待ち伏せて殺害にした。
久保村は民政局筆頭として戊辰戦争後の会津で施政の任務を行っていたが、
旧会津藩の藩士や住民に対する侮蔑や誹謗中傷が目に余る程だったという。
|
■ |
天屋・本名集落の西外れに束松峠への入口がある。指道標には旧越後路と新道が示されている。
車一台であれば入口付近の路肩にどうにか駐車できるだろう。
新道には車輪の轍の跡があるので軽四駆であれば或る程度通行可能かもしれないが、
今回はここから旧越後路を上り、新道を下るコースを歩いて往時を偲ぶことにした。
旧越後路は江戸時代の道、新道は明治時代になってから整備された道で、所々で重複・交錯する。
六地蔵を右に見送り山王神社を左に見送り、側溝のある広く立派な県道未開通区間という印象の道を登っていくと、左手に三本松。
枯れた枝を切断した為に痛々しい姿である。地球温暖化や酸性雨などによる環境変化が影響しているのかもしれない。
案内板があるので参考にしたい。
|
■ |
「ひこ束松」の指道標に従い、三本松のところから旧越後路を離れて200mほど南進するとひこ束松が見えてくる。
束松の名前にふさわしい見事な枝ぶりのアカマツである。県指定天然記念物に選定されている。
通常のアカマツとDNAが異なるのであろうか。ひこ束松の右奥には鳥屋山が顔を出している。
ここからまた三本松まで戻り、旧越後路を登って行く。
|
■ |
心地いい雰囲気の旧越後路を登ってゆくと、突然と道が途絶える。
大正14年2月に地滑りが発生した地点である。「本名八百刈の地辷点」というらしい。案内板がある。
ここからは少しの区間、登山道のような道を登る。
やがて電力線の鉄塔が建つ小ピークに至る。眺望がいい。ここには一対の一里塚が残っており、旅人で賑わった往昔が偲ばれる。
鉄塔や高圧電線が無ければ、タイムスリップした感が味わえることだろう。
|
■ |
一里塚から北西に延びる道を200mほど進む。新道の洞門への道を右に見送り左に進み、今度は新道を左に見送り右へ進む。
200mほど進むと子束松の跡がある。残念ながら灌木の中に大きな切り株が残るのみ。
|
■ |
子束松跡から200mくらいで束松峠。四阿があり会津盆地の眺望もいいので大休止といきたい。
会津坂下町教育委員会の案内板によると、江戸時代から昭和30年代までここには二軒の茶屋があり、焼き鳥やあんこ餅が名物だったという。
松平容保に仕え戊辰戦争では会津藩の軍事参謀として藩兵を率いた秋月悌次郎が、敗戦後に越後に西軍参謀の奥平謙輔(長州藩士)を訪ねての帰途、
この峠で『行くに輿無く帰るに家なし・・・』という詩を詠んだそうである。
帰りは、新道を通り天屋・本名集落まで戻る。時間があれば束松洞門へ立ち寄るのもいいだろう。
[ 参考 ]
明治維新からまだ間もない1878年(明治11年)6月29日、
英国の女性旅行家イザベラ・バードもこの束松峠を通ったかもしれない。
6月から9月までの3ヶ月をかけて 日光から会津を通り新潟に抜け山形・秋田・青森・北海道を旅し、紀行文『 Unbeaten Tracks in Japan 』(1885年)と題して出版した。
ご興味のある方は、「イザベラ・バード 『日本奥地紀行』 福島県会津地方での行程」をご覧願いたい。
|