・ 神様しか知らない設計図 | 2021.11.03 |
・ エールよ響け! | 2020.12.30 |
・ 廃炉完了まで、最長であと32年と9ケ月 | 2019.03.01 |
・ 光明 | 2018.03.14 |
・ 梅雨の季節に思う | 2016.06.29 |
・ 紅葉の香り | 2015.11.15 |
・ われら地球人 … 遠退く自由・平等・平和への抗い | 2014.12.06 |
・ プライスさん、ありがとう | 2013.09.11 |
・ 心をひとつに | 2012.05.24 |
・ デクノボー礼讃 | 2012.03.11 |
・ 赤銅色の光に祈りを込めて | 2011.12.15 |
・ 阿武隈の山々は見守っている | 2011.05.17 |
・ 愛しの磐梯山 | 2010.10.18 |
・ 十二の徳目(心の中に平和の砦を) | 2009.12.03 |
・ タヌキ受難の時代 | 2008.11.24 |
・ 忘れられない林檎 | 2007.09.25 |
・ センブリの花 | 2005.10.28 |
・ 末期の水 | 2004.11.15 |
・ 岳翁 | 2004.07.10 |
・ 山岳信仰 | 2003.10.18 |
・ 虫刺され(蚊・蚋・虻・蜂・ダニ) | 2003.07.20 |
・ スロー登山 | 2003.06.20 |
・ ゴミの不法投棄 | 2003.04.11 |
・ 登山中のトイレ考 | 2002.08.14 |
・ ペット連れの登山 | 2001.10.22 |
・ 登山靴の劣化 | 2001.09.07 |
山登りの途中、皆さんはどんなことを考えるだろうか? 私は、疲れてきて手足が重くなると、地球の重力や時間について考えることがある。 山頂までの残りあと30分が実際より長く感じられる頃は尚更だ。
重力とは、時間と空間の歪みだと、アインシュタインは述べている。 だとすれば、そもそも、その時間と空間とは何だろうか? もっと正確に言えば、「人間が、時間や空間として認識している対象」の正体は何だろうか?
物理学の数式には、よく出てくる時間と空間(場)だ。 基本中の基本の、時間と空間だが、その正体は不明のままだ。 科学者は、宇宙というものの正体について懸命に解明しようとしているが、 「時間と空間 = 宇宙」なのだろうか?それとも「時間と空間 > 宇宙」なのだろうか? そもそも「宇宙は複数ある」という仮説もあるくらいだから、なんとも難しい。
学生の頃、1秒間に30万kmも進む光の正体が、 光子という小さな粒(素粒子)だと教わって衝撃を受けた記憶がある。 人類の科学が進歩して、時間と空間の正体について解明されるのは、 百年後だろうか?千年後だろうか?どんな人が解明するのだろうか? 自然科学の謎を紐解いて、万物の創造主である神様しか知らない設計図を知り得たら、 こんなに凄いことはないではないか。
真偽は別として、ニュートンは林檎が落ちるのを見て『万有引力』に気付いたと云われる。 吾妻連峰を望む県北地方ではとくに林檎の栽培が盛んだ。 新型コロナで何かと制約の多い暮らしだが、心身のリフレッシュに山へ行こう。 重力は標高が高くなるにしたがって極僅かだが小さくなる。 その違いに気づく人はいないだろうが、大自然の営みは心と体でしっかりと感じられるはずだ。 あなたが直面している難題についても、解決のヒントが得られるかもしれない。
今年3月から始まった福島出身の作曲家・古関裕而をモデルにしたNHKの朝ドラ『エール』が 新型コロナの影響で6月で一時中断した後、9月より再開、11月に終了した。 新型コロナと向き合うストレスの多い毎日だが、 福島県の人々はとりわけ『エール』に励まされた方が多いのではないだろうか。 福島三羽ガラスは、古関裕而、野村俊夫、伊藤久男がモデルという。 福島が縁で結成されたというGReeeeNが歌う主題歌『星影のエール』も背中を押してくれた。
3月29日、『エール』に小山田耕三役で出演中の志村けんさんが亡くなり、新型コロナの脅威が周知された。 本来なら開催されていた福島県の浜通りからスタートする聖火リレーと東京オリンピックも延期された。 今年は新型コロナに明け、新型コロナに暮れた。 多くの大切な命が奪われた。多くの大切な仕事も失われた。 人生が変わってしまった人も多いだろう。 偏見や差別も顕著になった。保健・医療・福祉関係者の負荷も大きい。 2011年3月の東日本大震災後の福島県の苦境と多くが重なる。
福島県は、東日本大震災と原発事故から間もなく10年になるというのに、 震災、原発事故、台風被害、新型コロナの【四重苦】だ。 国や政府の新型コロナ対策だが、原発事故で思い知らされた危機管理の弱さも再び露呈している。 英国でテスト予定だった廃炉作業用ロボットの試験も中止になった。 あと31年で完了するはずの廃炉作業に遅れが出ないかも心配だ。
古関裕而の生家『喜多三(きたさん)呉服店』は福島市中心部にあった。 福島市のシンボル信夫山とその周辺には、古関裕而の関連スポットが多い。 『エール』のオープニングの撮影地となった水林自然林は『ふくしま緑の百景』に選定されている。 心身のリフレッシュに訪れてみるのもよいだろう。 海外では異例の速さでワクチンが提供され始めている。 国産ワクチンも少し先になるが提供されそうだ。 今まさに地球規模で人類の英知と結束力が試されている。 音楽に携わる方も厳しい状況だが、音楽からエールをもらっている人が大勢いる。 音楽は国境を越えて言語の壁を越えて世界中の人々の心に届く。音楽には力がある。エールよ響け!
今月で、東京電力福島第一原子力発電所(1F)の事故(設備損壊、電源喪失、冷却機能喪失、メルトダウン、水素爆発、放射性物質の拡散)が発生してから8年経つ。 2月には溶け落ちた核燃料などが固まった物(燃料デブリ)を遠隔操作できるロボットで接触確認する作業が2号機で行われた。 廃炉工程の完了時期については、「2011年12月を起点に、廃炉完了まで30年から40年」と国と東電からアナウンスされているので、残りは最長で32年と9ケ月という計算になる。
掲載の画像は浪江町と双葉町にまたがる十万山の山頂から遠望した事故前の1Fだ。 十万山の近くには双葉ばら園があって、美しいバラの花と甘い香りを楽しんだ想い出が懐かしい。 十万山からは何枚も風景を撮影しているが、1Fが写っている写真はこれだけだった。 中央に見えるのが5・6号機、右端に見えるのが1・2号機と思われる。 距離にして約10km。肉眼ではもっとはっきり見えるが、当時の安価なコンパクトデジタルカメラではこの程度の画像がせいぜいだった。
4月1日には新元号(○○)が発表される。 そして5月1日から新しい元号がスタートするので、 32年と9ケ月後の廃炉完了は、○○33年12月(2051年12月)ということになる。 新しい元号では災害の少ない日本そして世界となることを願う。
ニュースではあまり報じられないが、1F周囲に広がる中間貯蔵施設の方も気がかりだ。こちらは2015年3月の搬入開始から30年となる2045年3月(○○27年3月)までに県外最終処分を完了することが県民に約束されている。 しかし、沖縄県の貴重な土地を占拠する米軍基地が1972年5月(昭和47年5月)の本土復帰から47年近く経ってもあまり変わらない現状が頭をよぎる。 廃炉が完了した時、1Fの敷地と周囲に広がる中間貯蔵施設はきれいな更地になっているのだろうか? 十万山の山頂からまた同じ方向を撮影してみたいが、夢が叶うだろうか。 新たな事故が発生しないように慎重で正確な作業が最優先だが、廃炉完了の時期が早まる分には大歓迎だ。 様々な線引きによって地域と人々の心が深く分断されてしまった福島県だが、少しずつまとまっていく32年と9ケ月になってほしい。
[ 追記 2019.4.1 ]大震災と原発事故の発生から7年が経った。 最近はなかなか登山に行けないのだが、行くときは今でも放射線の測定器を持って入山する。 事故発生から暫くの間はもっぱら放射線への不安からだったが、今はどのくらい放射線が減少しているのか確認したくて持って行く。 悲しいことだが私にとっては使い慣れて身近になってしまった放射線測定器だ。
掲載した画像は、国や県が公表した空間線量率(μSv/h)の調査結果をもとに当サイトが今まで掲載してきた線量マップをパラパラ漫画風に結合したものだ。 精度が高いものではないので参考程度にご覧いただきたいが、年月の経過とともに放射線が着実に弱くなっているのが分かる。 登山道では地形や地質、気象、動植物、人間活動などの影響を受けて放射性物質が複雑な動きをしている為に局所的には異なる場合があるが、概ね一致しているのではないだろうか。
学生の頃に放射性物質の半減期を物理法則として学ばれた方もいらっしゃるだろう。 残念ながら万物創造の主が決めたこの半減期を人類は受け入れるしかない。 福島第一原子力発電所から飛散して降下した主たる放射性物質である ヨウ素131の半減期は約8日、セシウム134の半減期は約2年、セシウム137の半減期は約30年という。 ヨウ素131は消滅して久しい。従って、現在の福島県内の空間線量率(μSv/h)の減少率は、 放射性物質が地表に降下・定着した時のセシウム134とセシウム137の比率に大きく左右され、歳を重ねるごとにセシウム137の減少率に近似していく。
本当に困った放射線だが、放射性物質は半減期という物理法則に謙虚かつ正直に従って昼夜を問わず着実に減少している。 国や東京電力が福島第一原子力発電所の危険性や脆弱性を指摘する声に耳を傾けず安全対策を後回しにしてきた傲慢さとは対照的にすら思えてくる。 不確実性に溢れた日常において、物理法則に愚直に従って一時も休むことなく減少し続けているセシウム134原子とセシウム137原子に将来への確実な光明を感じるのは私だけだろうか。
福島県を含む東北南部では6月13日に梅雨入りした。平年よりは1日遅いが、昨年よりは13日も早い。 福島の山々とその麓に広がる水田は、恵みの雨で緑がいっそう濃くなってきた。 ところが関東地方は6月5日に梅雨入りしたというのに未だにダムの水量が少なく渇水の恐れがあるという。 冬に積雪が少なかったことや梅雨に入ってからもダムの上流部に降雨が少ないことが要因らしい。 一方で4月から5月にかけて熊本地震で被害をうけた熊本県やその隣県などでは、今月に入り今度は大雨の被害も被っている。 度重なる災害に立ち向かう姿が、東日本大震災と原発事故、風評被害からの再生に懸命な福島県と重なる。
少し前になるがテレビのドキュメンタリー番組で、東日本大震災の津波で大切な家族を失った方が、「海は悪くない」と穏やかな表情で語っていた。 謙虚かつ冷静かつ論理的に考えてみれば、地震も津波も地球にとっては普通にある自然現象の一つなのだ。 そのように考えれば、渇水や大雨も、地球の純粋な自然現象として捉えることも出来る。 しかし、近年の渇水や大雨は、二酸化炭素や冷媒ガスなどの温室効果ガスの大量排出による地球温暖化という人的要因が無視できなくなってきている。 渇水や大雨を自然の摂理だけでは片づけられなくなるほど際限なく増大している地球規模での人類の活動だ。
梅雨のこの季節、せっかくの登山が雨で中止になった方も多いだろう。登山を趣味にされる方は梅雨が嫌いという方が多いかもしれない。 雨天の登山は視界が利かず濡れた登山道は滑り易く危険な上、高い透湿性を謳ったレインウェアでも内側が蒸れて不快な時もある。 しかし、晴れた日には見せない山の表情に出合うことがある。 雨靄をまとった山並みは仙境の趣があり、道端のしっとりと濡れた花々は色濃く生気があふれて美しい。 雨が降りしきる日の山行はもちろんお勧めできないが、小雨の時は十分な用意をした上での山行もよいだろう。
原発事故で楢葉町から多くの方が避難されている会津美里町では7月5日(日)まで伊佐須美神社で『あやめ祭り』が開催されている。 雨に濡れたアヤメやハナショウブはとても色鮮やかで美しい。 2008年(平成20年)に大規模な火災で焼失した社殿はまだ仮設である。 伊佐須美神社は今まで何度も火災に遭いながら復興してきた。福島県に暮らす人々の震災からの復興も見守ってくれていることだろう。 時間と体力に余裕があれば、伊佐須見神社のすぐ近くにある白鳳三山や奥ノ院が佇む明神ヶ岳、遠い昔に伊佐須見神社が建っていたという博士山など、会津美里町の信仰の峰々と併せて訪れてみてはいかがだろうか。
水の国そして瑞穂の国である美しい日本には梅雨の季節はなくてはならない。 山紫水明の日本列島に暮らす人々は古来より梅雨と向き合い、梅雨の季節を大切にし、そして楽しむ文化や文明を築いてきた。 しかし、地球温暖化を食い止められなければ、日本の気候もますます熱帯化し梅雨の様子も大きく変化するだろう。 登山中の熱中症や感染症、雪崩、土砂崩れなどの危険性も高まる。人類の英知を集め、智慧を働かせたい。 40年とも50年ともいわれる福島第一原発の廃炉工程にも通じる。 将来の日本そして世界の環境がどうなるか予想・予測は困難だが、せめて「人類は悪くない」と自信と確信をもって言える(言ってもらえる)人類でありたい。 梅雨の季節の雨が、日本に暮らす全ての人々にとって末永く恵みの雨たらんことを切に願う。
11月は阿武隈山地の紅葉が見頃だ。紅葉の中、積もった落ち葉を踏みしめて歩く。黄色、赤色、朱色…。木々の紅葉は色鮮やかだ。 一方、落葉して足元に敷き詰められた葉は薄い茶褐色や灰色気味の地味なものも多い。その対比も趣がある。 落ち葉が登山道に積もっていると濡れていたり急登だったりすると滑りやすいのが難点だが、 衝撃を吸収するクッションの役割も果たし快適だ。
色鮮やかな色彩を目で楽しむことが多い紅葉だが、その匂いを楽しみにする人はどれほどいるだろうか。 ブナ、ナラ、クヌギ、クリ、モミジ、カエデ、ヤマザクラ、ナナカマド…。 堆積した落ち葉は言葉では表現が難しい独特の発酵したような匂いがする。 新緑の新鮮な清々しい香りとは違って、必ずしもよい匂いとは言えない。 人によって好き嫌いが分かれるかもしれないが、紅葉に囲まれた登山道で、私にとってはその匂いがなんとも心地よい。
幼稚園の頃、私は秋になると落ち葉が積もった園庭でよく遊んだ。 小学生になり自転車を手にして行動範囲が広がると、近くの里山へ紅葉狩りに出かけていた。 匂いで記憶が蘇ることがあるといわれるが、登山中に紅葉の匂いがすると、 遠い昔の楽しかった思い出や人々、風景、街並みなどが、走馬灯のように私の頭の中を駆け巡る時がある。 年月を経て脳裏の奥底に眠っていた記憶や消えかかっていた記憶が表に現れる瞬間があると、自分でも驚きを感じる。
今月で、大震災と原発事故から4年8か月が過ぎた。 放射線は物理法則の半減期に従って着実に弱くなってきているが、阿武隈山地に広がる帰還困難区域では放射線はまだまだ高い。 浪江町と双葉町の境には十万山という地元の人々から愛された里山がある。 太平洋を望める山頂の小広い斜面には子供たちのために背の高い大木にブランコがつるしてあった。 原発事故が起こるまでは、紅葉の匂いが漂う中、まるで空中ブランコのようなスリルを楽しんだ子供も多かったにちがいない。 中にはブランコから落ちて斜面を転がり、落ち葉にまみれた子供もいただろう。 そんな子供たちは大人になってどこかで紅葉の匂いを感じた時に、地元の里山で遊んだ頃の沢山のよい思い出が蘇るに違いない。 たとえ故郷に戻れなくても、心の中には紅葉に彩られた美しい山や川が蘇るに違いない。
旅客船沈没事故、イスラム国の拡大、ウクラナ問題、近隣国の海洋進出、ゴーストライター問題、STAP細胞問題、憲法解釈変更、政治腐敗、エボラ出血熱、危険ドラッグ、特殊詐欺(振り込め詐欺)、黒人少年射殺事件、連続不審死事件…。今年も国内外で様々な事故や事件が発生した。 ここ十年くらいだろうか、世の中が悪い方へ進んでいる気がしてならない。 まるで、真綿で首を絞められるように、カエルが気がつかないうちに茹であがるように。
「われら地球人」という標語は、1940年代〜60年代に活躍した天文学者の畑中武夫氏が好んで使った。 国・地域・部落、民族・人種・肌の色、宗教・信条、年齢、性別、職業、地位、名誉、学歴、家柄、財産…。 様々な“違い”を乗り越えて地球上に生きる全ての人が幸せに過ごせるようにとの思いが感じられる言葉である。 神々しい宇宙と日々向き合う天文学者であるがゆえに、地球上に目を向けると様々な偏見や差別・格差に起因する戦禍が多いことを人一倍敏感に感じ、そして心を痛めていたのではないかと拝察する。
お釈迦様は生まれて直ぐに右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と言われたという。 しばしば“世の中で私が一番偉い”ことだと誤って使われるが、 本来は“この世に生きる全ての人が個々人として最高に尊い存在”という意味だという。
天上天下唯我独尊である個々人が幸福な日々を送るには自由・平等・平和は欠かせないが、 世相を見るとそれを大切にしない人が増えているようで心配である。 経済の低迷や少子・高齢化、大規模災害、隣国の脅威などが続くことで経済至上主義や全体主義の中に“個”が埋没しそうな 日本そして放射能による汚染や風評被害、偏見・差別・格差に苦しむ福島だからこそ、遠退く自由・平等・平和に対して我々一人ひとりが反骨精神を持ち続けて抗わなければならない。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」だ。
福島市飯野町は随分前からUFOで町おこしをしている。 飯野町のシンボルである千貫森に登ればいつでも個性的な姿をした宇宙人たちに会える。 麓にはUFOふれあい館があり、UFOに関する色々な展示を楽しめる。お風呂もあり散策の汗を流せるのがうれしい。 “自分も地球人の一人”だということを再認識・再確認させられる場所でもある。 遊歩道(UFO道)に佇んで道案内する千貫森の宇宙人の石像たちに“違いを乗り越えた先にある自由・平等・平和”を感じるといえば大げさだろうか。 “地球人”としての自覚と誇りを持って自由・平等・平和に満ちた世界を実現できた時、 もしかしたら「“あなたがた地球人”と友達になりたい」と宇宙人たちから言われるかもしれない。
福島盆地の中心に、浮島のような山容で福島市のシンボル的存在として市民から愛される信夫山がある。 その南麓に建つ福島県立美術館で7月27日〜9月23日まで『若冲がきてくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命』と題した東日本大震災復興支援の特別展が開催されている。 江戸絵画の世界的コレクターとして知られるジョー・プライス氏のコレクションの他、国内から複数の美術館の賛助を得た。 伊藤若冲を中心に、酒井抱一、鈴木其一、円山応挙、長沢芦雪、森狙仙などの江戸絵画の大規模な美術展だけに福島県内外から連日多くの方が訪れている。 収益金は震災からの復興に役立てられるという。
今回展示されている江戸絵画は全部で100枚(一部は前半と後半で入れ換え)。どれも繊細かつ緻密で、その凄さに圧倒される。 心技体を極めた江戸時代の絵師たちの息遣いまでも聞こえてくるようだ。 色彩豊かで生命力と想像力にあふれる若冲の作品を見てエネルギーをもらった人も多いだろう。 各作品には本来の作品名とは別に子供向けの分かり易い作品名が付け加えられている。 高校生以下は観覧料が無料になっており、混み合う展示フロアでは子供たちの姿も多い。 福島県の将来を担う子供たちへの配慮が嬉しい。
私が美術館を訪れた日、エントランスホールでは悦子夫人も同席してサイン会が催されていた。 遠目にもご夫婦の温和な人柄をうかがえた。 23歳の時に初めて購入した若冲の「葡萄図」との出会いがエンジニアだったプライスさんの人生を変えたという。 若冲の絵はその頃あまり評価されていなかったというが、それでもプライスさんは若冲の絵の素晴らしさを確信して収集し続けた。 最初の一枚の絵との出会いから60年が経ち若冲の世界的なコレクターとなった。若冲の絵の評価に大きく貢献した。
プライスさんがコレクションに入れる絵を選ぶ基準は、誰が描いたかではなくあくまでも絵そのものの良さだという。 若冲という名前にひかれて美術館に足を運んだ私は複雑な思いだが…。 エツコ&ジョー・プライスコレクションの日本への里帰りは今回が最後になるかもしれないとのこと。 被災地を励ますために、ご高齢にもかかわらずアメリカから駆け付けてくださったご夫婦に心からありがとうと言いたい。 今日で東日本大震災と原発事故から2年半経ったが、相変わらず想定外や対応遅れが続く。 若冲は「千載具眼の徒を竢つ」という言葉を残していたという。 福島県ではプライスさんのような真贋を見抜く眼力を持った“具眼の徒”が必要とされている。
5月21日(月)、西日本から東日本の太平洋側の一部で金環日食が見られた。 福島県いわき市では食の始まりが6時21分頃、食の最大が7時38分頃、食の終わりが9時7分頃となった。 薄雲が一時太陽にかかることもあったが、なんとか始めから終りまで見ることができた。 小欄をご笑覧いただいている方の中には、通勤や通学の途中にご覧になった方も多いと思う。 前回福島県で中心食(皆既日食または金環日食)が見られたのは1887年(明治20年)8月19日のことで、125年ぶりという。
稀に見る好条件の今回、日食の撮影地に選んだのはいわき市小名浜の三崎公園。 東側の見晴らしがよいことと、中心食線(中心食帯の中心線)に幾分近い為である。 当日、自宅を出たのが午前5時。三崎公園の駐車場に着いてみると平日の早朝にもかかわらず既に多くの方が訪れていた。 老若男女さまざまである。幾つかある駐車場では関東方面や宮城、山形、新潟からの車も見かけた。 高価で高性能な望遠鏡や赤道儀、一眼レフカメラも目立つが、当方は安価なデジカメ(コンデジ)で挑戦。 日食が始まるとカメラのシャッター音がひっきりなしに聞こえる。ベイリービーズや金色に輝くリングが見えると歓声とともにひときわ大きなシャッター音が響き渡った。 あまり目立たないが三崎公園には福島県内でもっとも低い一等三角点(46.7m)が設置されている。 マリンタワーの近くに標石があるので、ご覧になってはいかがだろうか。 マリンタワーは高さが約60mなので今週開業した東京スカイツリーの十分の一ほどだが立地条件から眺望絶佳である。
今回の日食は通学時間帯と重なる為に学校などでは登校時刻を変更するなどして将来を担う多くの学生達が観察できたのが嬉しい。しかしその一方で仮設住宅や避難先でご覧になった方も多いことだろう。 本来であれば心から楽しめる世紀の天文ショーであるが、日食の刹那の間ですら震災や原発事故との闘いが重くのしかかる。 震災や原発事故がなかったら古里で大切な人と一緒に楽しめたはずの日食であった。 三崎公園近くのいわき市沿岸部では津波で多くの方々が亡くなった。放射能の影響で小名浜港からはいまだに漁に出られない。 福島県は避難区域や賠償問題などで様々な線引きがなされ、世代間や地域間における不公平感なども広がっている。 福島の人々の心はバラバラになりつつある。
金色に輝くリングが見えた時、太陽と月と福島は125年ぶりに一直線になった。 その時、“福島の皆さん、希望を失わないで”という太陽と月と地球の声が聞こえたような気がした。 バラバラになりつつある福島の人々の心であるが、日食の間の一瞬だけは心がひとつになったように思えた。 金環日食を報じるニュースではリングが見えた時に結婚のプロポーズをした人もいたようだ。 人それぞれの思いを託した金環日食であるが、今回の天文ショーが福島再生にむけて心をひとつにするささやかなきっかけになることを祈りたい。
東日本大震災と原発事故から一年が経ったが、被災地では地面を這いつくばう様な苦しい生活が続く。 原発の警戒区域や計画的避難区域の方々はいまだに帰郷が叶わない。故里や生き甲斐、大切な人を失った悲しみから立ち直ることは容易ではない。 被災地の復興に至る長く険しい道のりを思う時、悲しみや悔しさ、淋しさ、虚しさ、憤りなど様々な感情が湧きあがってくることがある。 我が国では大規模な危機対応が全く出来ないことを痛感した。 多くの方からいただいた支援や励ましの言葉に涙し、文明の進歩によって人が神に近づいたかのような傲慢な錯覚を反省する日々を送る。
そんな日常生活で、ふと子供の頃に読んだ宮沢賢治(1896 - 1933)の『雨ニモマケズ』を思い出すことがある。 震災後にラジオで何度か聞いたことを記憶している。 自分を見失いがちな被災地や避難先で、ささやかな日常を取り戻し人生を先へ進めたいと願っている人々への応援歌である。
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち
慾は無く 決して瞋らず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり そして忘れず
野原の松の林の蔭の 小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないから止めろと言い
ヒドリ(日照り)の時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず
そういう者に 私は なりたい
様々な苦難と向き合わねばならない耐乏生活にあっても逞しくそして自分を見失わずに穏やかに生き抜く姿は、 被災地や避難先で暮らす人々のお手本であるが、 物質的豊かさのみを追求し世道人心を軽んじてきた戦後の日本で失われつつある人間像でもある。 華やかな日常を謳歌し金や地位や名誉に執着する貪欲で身勝手なエリート達から見れば、世の為人の為に我が身を削って必死に暮している者はデクノボーに見えることだろう。 残念ながらこの東北の地でも金や地位や名誉にこだわり衣食住に贅沢をする欲者が増えている。かつて「ぼろは着てても こころの錦 …」という歌が日本中にはやった時代があった。 絶望の淵にある被災者がかかえる様々な苦しみを心に刻み、己の戒めとしなければならない。
二十一世紀に入り日本は少子高齢化やグローバル化による国内産業の衰退が驚異的なスピードで進んでいるが、とりわけ東北では顕著である。 そのような困難な状況に追い討ちをかけるように発生した震災と原発事故である。 被災地では他人の痛みを自分の痛みとして思える人を今まで以上に必要としている。 病気と闘いながら命を削りながら晩年を農業指導に東奔西走した賢治の思いに共感を覚える。 福島県内での活動はあまり聞こえてこない賢治だが、高村光太郎や智恵子、草野心平とも縁が深いと聞く。 震災後、幸せとは何か、人生とは何か、命とは何か、家族とは何か、故里とは何か、社会とは何かなど改めて考えた方も多いと思うが、 著名な詩人たちがこの震災や原発事故に直面したらどんな思いを抱くだろうか、 そしてどんなメッセージを世に送り出しただろうか。
原発事故から一年経っても阿武隈山地の北部は高線量地区が多い。 詩人が美しい詩を創作できた原発事故前の福島を夢に見る毎日であるが、 半減期が二年のセシウム134が大方無くなるのに二十年、 半減期が三十年のセシウム137では三百年ほど必要という。 気が遠くなるが、前人未踏の険しい山登りのように智恵を出し合って道筋や手段を慎重に見極めて進まねばならない。 今までの価値観やライフスタイル、ワークスタイルなどを見直す努力や創意工夫も必要となる。 放射線や風評被害、偏見、差別などとの長い闘いも始まったばかりである。 随分前になるが「広島は“ヒロシマ”ではない!長崎も“ナガサキ”ではない!」と原爆を投下された地元の古老が強い口調で語っていたことを思い出す。 福島を“フクシマ”と片仮名で呼ばせてはならない。 被災地に本物の笑顔を取り戻さなければならない。 賢治が心からなりたかった“何事にも負けない丈夫で賢くて質素で優しいデクノボー”に、私達はならなければならない。
12月10日(土)の夜、太平洋側を中心に日本の各地で皆既月食が見られた。 半影食の始まりが20時31分頃、部分食の始まりが21時45分頃、皆既食の始まりが23時5分頃であった。 浜通り地方では快晴とはいかず薄雲が時折月にかかる天候だったが、 なんとか始めから終りまで見ることができた。 山登りを趣味にされる方の中には星空が好きな方も多いのではないだろうか。 山小屋やビバークで山中泊した時などに見る天の川や流れ星などは本当に美しい。
学生の頃、私は星空を眺めるのが好きで、空気が澄んで気象的に好条件となる冬季になると モーター追尾式の赤道儀に望遠鏡やカメラをセットしては 月や太陽、惑星、星座、星団・星雲などの写真を撮影していたことを思い出す。 当時はデジカメなどない時代なので、暗室でフィルムを現像し印画紙に焼き付ける瞬間までうまくいったか判らないのだが、 それがまたよかったような気もする。 社会人になってからは久しく天文分野からは離れていたが、 稀にみる好条件の皆既月食をニュースで知り、数十年ぶりに夜空にカメラを向けた。
今年は大震災で多くの人が亡くなり、放射線に苦しみ続けた一年であった。これからの先もまったく見えない。 阿武隈の山々は原発事故から9ヶ月経った今も高線量地区が多い。地元の人々と深い関わりをもってきた里山である。 後回しにされることの多い広大な面積の山野林の除染であるが、山野林の線量が下がらない限りその周囲に放射線の影響が出続ける。 野田首相の言い方を真似るとすれば、 『放射性物質によって汚染された阿武隈の山々の再生なくして、福島の再生なし』である。 そんな年の瀬であるから、今回の皆既月食の神秘的な光は、とりわけ心の奥底まで沁みいる感じがした。 震災で犠牲になられた方々への鎮魂の優しい光のようでもあった。 中天の月から放たれる赤銅色の光に復興の祈りを込めた。
原発事故で放射能に苦しむ阿武隈の山々であるが、天文ファンの隠れた人気スポットも多いと聞く。 いわき市と古殿町、平田村にまたがる芝山などは天文ファンが訪れることで有名である。 手軽にキャンプができる見晴らしのよい広い山頂と美しい星空があるからだろうか。 太平洋側に位置する阿武隈の山々は冬季の晴天率も高い。 震災や原発事故で下を向きがちな日常であるが、空気が凛と澄みわたり星空の美しいこれからの季節、 皆さんも思い切って上を向いて夜空の星々を指呼してはいかがだろうか。 果てしなく続く暗闇の中にも、希望の光が強く輝くことを信じたい。
3月11日(金)午後2時46分、マグニチュード9.0の大地震が東日本を襲った。 東京電力の福島第一原子力発電所では水素爆発や炉心溶融が起こるなど極めて深刻な状況となっており、 阿武隈の美しい山々にも放射性物質がふりそそいだ。 国や東電が「原発は絶対安全」と豪語してきた割には、地震や津波の想定レベルが低すぎた。 そして「想定を越えるかもしれない」という謙虚さや自然への畏敬の念が欠如していた。 安全基準を見直してほしいとの最新の知見に基づいた改善要望も黙殺され続けたとも聞く。 40年余りに亘り原発周辺住民の安全を軽視しそして自然の力を甘く見てきた産官学のエリート達の責任はあまりにも大きい。
大地震から二か月ほど経ち、他県では復旧・復興の足音が聞こえ始めているが、 福島県では放射能が大きく立ちはだかっている。 原発からの放射性物質の拡散をニュースで知った須賀川市のキャベツ農家の男性がその翌日に自殺された。 土壌改良に長い歳月を費やしてようやく出来あがった畑だっただろう。 どれほどのショックだったか。言葉もない。
今頃になってようやく幾分精細な汚染マップが国から公開された。 それを見ると原発の北西方向の地域が空間線量率や土壌放射能が高いことがよく分かる。 「日本で最も美しい村」に認定されている飯舘村もそのひとつ。 その飯舘村には野手上山、花塚山、虎捕山など阿武隈山地を代表する名山が多い。 長年地元の方々から愛されてきた里山である。
例年、4月から5月にかけて阿武隈の山々は山開きのイベントや登山者で賑わうが、 その賑わいが戻るのはいつになるだろうか。 地元の方々に長年大切にされてきた里山がずらりと並ぶ地域である。 被災された方々、県内外に避難されている方々、懸命に復旧・復興作業に当たられている方々を 阿武隈の山々は放射能に耐えながら見守っている。 希望や誇りを失わないで笑顔を取り戻してほしいと願っている。 何年先になるか分からないが、子供たちがハイキングではしゃぎながら登りに来てくれる日を待ちわびている。
■ 放射能に耐える阿武隈の山々からのお願い(東電のエリート様へ)
東電の会長と社長の役員報酬は年7200万円だそうですね。
他のエリートの皆さんの年収も2000万円や3000万円はざらなのでしょう。
原発が地震と津波に弱かったのは、そのせいだったのですね。
お願いです。美しい山を返してください。美しい海を返してください。美しい空を返してください。
美しい街を返してください。美しい田畑を返してください。
子供たちの未来を返してください。人々の笑顔を返してください。
原発から拡散した放射性物質を全て東電の敷地に回収してください。
先日、社長が避難所を訪問された時に「土下座しろよ」と罵声を浴びせられていましたが、
そのイントネーションからおそらく言った人は福島の人ではないでしょう。
福島にはそんな卑劣な人はいません。
福島の人はどんな相手にも敬意と思いやりを忘れませんから。
皆さんはそんな福島の人々を苦しめていることを生涯忘れないでください。
10月16日、磐梯山山頂の三角点「磐梯」の標石が復活した。 強風と小雨の中、国土地理院東北地方測量部によって再設置工事が行われた。 多くの登山者が周囲で工事を見守り、東北地方測量部の竣工検査が完了した時には大きな拍手に沸いた。 再設置工事に先立ち10月2日には柱石や盤石、水などが、三角点の復活を働きかけてきた猪苗代山岳会メンバーのほか、 自衛隊や多くの登山者の方々の手によって山頂に運び上げられた。
このコラムをご笑覧いただいている読者の中にも、ガレた山頂で三角点の標石を捜された方もいらっしゃると思う。 磐梯山の山頂には1904年(明治37年)5月25日に三等三角点が設置されたが、戦後65年以上紛失状態にあったそうである。 なんと106年ぶりの標石再設置である。多くの登山者が長年待ちわびた標石の復活である。
私が磐梯山を初めて眺めたのは、中学の修学旅行で福島県を訪れた時に遡る。 光り輝く天鏡猪苗代湖と優美な表磐梯、そして神秘的な五色沼と荒々しい裏磐梯が数十年隔てた今でも鮮明に記憶に残っている。 当時のバスガイドさんは「磐梯山の動かない 姿にも似たその心 苦しいことが起こっても つらぬきとげた強い人・・・」と 文部省唱歌「野口英世」を歌ってくださった。磐梯山を眺める度にその美声を思い出す。 1888年(明治21年)、野口英世が12歳の時に小磐梯が水蒸気爆発で吹き飛んだ。 磐梯山周辺は観光のメッカとなっているが、多くの方が犠牲になられたことを忘れてはならない。
福島県は人口200万人余りの59市町村からなる日本で三番目に面積が広い県で、 会津(旧・若松県)・中通り(旧・福島県)・浜通り(旧・磐前県)に大きく分かれ、 気候・文化・歴史・産業・生活様式・方言なども様々である。 そのような多民族国家の様相を呈する福島県のシンボルが磐梯山である。
先日のノーベル化学賞で話題になった「クロスカップリング」では異なる有機化合物を結合させるのに触媒が重要な役割を果たすらしいが、 磐梯山は多様な福島県民の心をひとつに繋ぐ触媒のような役割を果たしているのかもしれない。 私は東京から福島に移り住んで今年で15年になるが、 磐梯山をとりわけ愛しく感じるのは、私の心にも「磐梯山カップリング」の化学反応が起きているからだろうか。
[ 追記 2011.3.1 ]今年、福島県内の里山の登山口近くで教育勅語が篆刻されている石碑を見かけた。 教育勅語は天皇の臣民として培うべき徳行を説くものとして、急速に西欧化が進む明治23年に公布されたもの。 しかし、残念ながら教育勅語の本来の趣旨から離れて戦争へ突き進む軍部や軍事政権に利用されたことも否めない。 昭和23年6月には太平洋戦争の終戦処理にあたる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の方針に従い、 衆議院と参議院により排除と失効の確認が行われ、教育環境から姿を消して久しい。 石碑の碑文の最後には昭和五十三年十月三十日謹書とある。 戦後の急速な経済成長とは反比例して荒廃してゆく人々の道徳心を憂う地元の古老達が建てたものだろう。
教育勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ
此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ
夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ
扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
皆さんはこの教育勅語を暗唱できるだろうか。 かつて特攻隊に志願した私の父などは今でも暗唱できるだろうが、私は「もちろん」できない。 1980年代に「新人類」という流行語がよく使われたが、 教育勅語をすらすらと暗唱できる戦前の教育を受けて育った概ね八十歳以上の方々から見れば、 現在の日本国民の大多数は「新人類」であろう。
間もなく未来の世紀といわれた21世紀も10年目を迎えるが、 相変わらず世界的スケールで富の偏在化が進み、戦火も絶えない。 行き過ぎた市場資本主義は少数の勝者と多数の敗者という区別を生みだしている。 このシステムを早急に修正し、富を分かち合える持続可能で安定した資本主義にしなければ人類に未来はないだろう。 その際に根本的に大切なものは何かと考えると、やはり心、とりわけ道徳心ではなかろうか。 しかし、その道徳心が現在の日本では瀕死の状態にある。 「衣食足りて礼節を知る」といわれるが、二十一世紀に入り「衣食が足りない人」や 「衣食が足りているのに礼節を知らない人」が増えている。 神話に基づく教育勅語の文面の全てを肯定する者は少ないであろうが、 現代の心の荒廃した時代にあっては「十二の徳目」と呼ばれる箇所などは輝きを増しているようにすら思える。 分かり易く抜き出すと以下の通り。
孝行、友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、
修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇
来週の火曜日は12月8日。日本軍が真珠湾攻撃を行い太平洋戦争が開戦し、そして第二次世界大戦が文字通り世界規模に拡大した日である。 昭和天皇は開戦に最後まで反対していたといわれるが、 日清・日露戦争での勝利という過去の成功体験から抜け出せない陸軍や海軍、軍令部のごく一部のエリート達は、 プライドや意地の張り合い、そして客観的思考や謙虚さの欠如から強引に開戦への道を推し進めたのである。 ファシズムやナチズムが台頭し帝国主義が世界中に蔓延している時期であった。 欧米列強によるアジア諸国の植民地化や天然資源の確保が目に余る状態で、 日本も欧米列強との覇権争いに否応なしに巻き込まれたのも事実であろうが、 大東亜共栄圏というスローガンのもと、アジア諸国に暮らす戦争を望まない平和を愛する幾百万の人々の命をも 奪ったことに弁明の余地はない。もちろん米ソを中心とする連合国側が行った非道も同様。 当時の日本政府や軍部にも初めは開戦に反対する声が多くあったと思うが、 組織が一部のエリートの思惑で誤った方向に暴走すると歯止めが無くなる典型例だろう。
しかしこの問題点は何も60年以上前の古い組織に限った話ではない。 現在でもイラクやアフガニスタンにおける米国政府や軍部による空爆などは、テロ組織(反米武装組織)とは無関係な多数の一般住民を死に至らしめている。 愛しい家族や友人を殺されたことでテロ組織(反米武装組織)に加わる人も多いと聞く。負の連鎖が食い止められず戦争は長期化・泥沼化して先が見えない。 ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領に期待したいが、状況は一人の英雄だけでは改善できない。 今ほど世界中の全ての人々の心の中に国際連合のユネスコ憲章に謳われた「心の中の平和の砦」が大切な時期はない。 そしてその平和の砦を築くための重要な礎となるのが道徳心であろう。
さあ皆さん、新年は大自然の中に身を置いて、生命の「美しさ・儚さ・逞しさ・厳しさ・優しさ・不思議さ・大切さ・・・」を全身全霊で感じよう。 福島県は魅力的な山々がとても多い。信仰の頂に登り、過去と現代においてあらゆる非道な行いによって犠牲になられた方々の御霊の安らかなることを祈ろう。 自然に生かされている自分と平和の有難さを再認識すれば、先の見えない混沌とした時代に一筋の光明が見えてくるかもしれない。 不安と傲慢に満ちた心から解放され、穏やかで謙虚な心を取り戻すことができるかもしれない。
11月中旬、痩せ細ったタヌキが交通事故で亡くなっていた。 数日放置されれば毛皮だけになるだろう。何とも痛ましい姿であるが、私には世道人心が 軽んじられる昨今の人間社会に対する野生のタヌキとしての意地とプライドをかけたデモ ンストレーションのようにも見える。写真の場所は福島県の浜通り・中通り・会津を繋ぎ 新潟県へ至る国道49号線。言わずと知れた福島県の主要国道のひとつであるが、毎年秋 になると交通事故で亡くなっているタヌキをよく見掛ける。それも早朝が多い。国道49 号線は東西に広い福島県を横断する幹線国道ということもあり、深夜から早朝にかけて多 くの車が高速道路に準じたスピードで先を急ぐ。タヌキは夜行性の為、夜中に車道へ出て きたところを事故に遭うのだろう。イヌやネコに比べて敏捷性が低く警戒心に乏しいタヌ キは言わば交通弱者でもある。
何年か前になるが仕事の残業を終えての帰り道、私もタヌキと車でぶつかったことがあ る。時刻は正確に覚えていないが午前0時はまわっていただろう。車を運転しているとラ イトに照らし出された一匹のタヌキと目と目が合った(ような気がした)。次の瞬間、そ のタヌキが道路脇から飛び出してきた。タイヤがロックするほどの急ブレーキを掛けたが 少しぶつかってタヌキは数メートル飛んだ。車を降りて様子を見ようとすると近くの竹藪 に消え去ってしまった。あのタヌキは今頃どうしているだろうか・・・。
タヌキは夫婦で子供を大切に育てるという。国道49号線で亡くなっていたタヌキは母 親だろうか父親だろうか、それとも巣立って初めての冬に備える子供だろうか。晩秋の福 島県は厳しい冬の到来を予感させる凛とした冷たい空気が支配する。タヌキの家族達も冬 に備えて畑や民家周辺を徘徊することが多くなる。タヌキと言えば丸々と太ったイメージ が強いが、最近見掛けるタヌキは痩せている個体も多い。若いタヌキだろうかそれとも餌 の獲得に難儀しているのだろうか。里山や雑木林が荒廃し、タヌキが住みよい棲息地が少 なくなっているのかも知れない。
もう随分昔の話だが、私が生まれ育った家にはタヌキの剥製があった。幼い頃の私はそ のタヌキの剥製がお気に入りだった。ぬいぐるみやフィギュアなどあまり無い時代のこと である。笠と蓑をかぶり首に手ぬぐいを巻き手に徳利と通い帳を持った愛嬌のある姿は脳 裏に焼き付いている。そのような幼い頃の境遇から私はタヌキへの思い入れが人一倍強く 敏感なのかもしれない。先日も里山を散策中にタヌキから威嚇を受けた。地球上の大切な 自然や生命をもっと愛しんでくれよというタヌキから人間への貴重なメッセージのような 気がした。魑魅魍魎のような者が跳梁跋扈する人間社会では難しいだろうなと独り言。い やいや魑魅魍魎に失礼か。里山から自宅への帰り道、とりわけ車の運転が慎重になった。
[参考] 道路上で、死んでいる野生鳥獣や傷病野生鳥獣を見つけた場合、先ずは次の連絡先へ今から数十年前のこと、まだ私が学生だった頃の話である。秋真っ盛りの景色を堪能す るべく、自宅から自転車に乗って出かけ、里山ハイキングを楽しんでいた。しばらくして 薄暗い雑木林の山道を歩いていると、少し空が開けて陽の光があたる場所に赤い果実を見 つけた。近寄ってみると細い林檎の木に数個の赤い林檎がなっていた。山中のこと、昔こ こに林檎畑があったとも思えない。鳥が運んできたのか、それとも誰かが吐き捨てた林檎 の種から育ったものなのだろうか?個人所有の山でもないし明らかに栽培しているもので もないので失礼して1個だけ頂くことにした。
農薬など皆無の状態、洋服の裾で軽く拭いて皮ごとまるかじりしたが、そのあまりの美 味しさにそれまでの疲れなど一気に吹き飛んでしまった。鮮度はもちろん、香り、歯ごた え、酸味と甘みの強さとバランス、見た目の美しさ、どれをとってもスーパーで売られて いる林檎達はその林檎に遠く及ばない。(空腹時に自然の中で食べるというアドバンテー ジを差し引いたとしても。)林檎の木々に囲まれるようにして育った私であるが、それま での人生の中で一番美味しい林檎といっても過言ではなかった。
幹の太さといえば10cmにも満たない若い木で、もちろん人手で手入れなどされておら ず、ぽつんと一本だけ雑草の中に埋もれるような状態である。それなのになぜあんなにお いしい林檎がなったのだろうか。まさに山の恵みであり、生産性や経済性が重視される市 場価値からは見放された林檎であるが、しかし(絶対ありえないことであるが)あの林檎 が市場にだされたら、木箱に入り高値をつけている「超高級林檎」ですらイチコロであろ う。
皆さんは日常よく食べている林檎の木を実際にご覧になったことがあるだろうか。化学 肥料や農薬で木の枝や葉が真っ白で匂いもすごい。最近は無農薬栽培も叫ばれ、化学肥料 や農薬使用を控える動きもあるが、それでも化学物質にアレルギーのある方は食べられな いものもある。生産性を重視せざるをえない面もあり仕方ないが、果樹園の林檎の木々は 疲れているのではないだろか。安くて安全で美味しい林檎を作る為に生産農家の方々も指 導にあたる自治体も努力を重ねておられるが、大量生産で疲れた林檎の木からは作れない 美味しい林檎が存在するのも事実である。林檎だけでなく、人間にも同じことがいえるの かもしれない・・・。
残念ながらあの林檎があった場所はもう記憶にない。今でももしあったら大きな成木に なっていることだろうが、自然はそんなにあまくないであろう。今年もまた林檎の収穫シ ーズンとなりスーパーの店頭に美味しそうな林檎が並ぶが、あの林檎より美味しい林檎に は出会えそうもない。あの林檎に出会ってしまったことが、私にとっては幸運でもあり不 運でもある。
秋空がすがすがしい10月、阿武隈山地のとある里山の登山道沿いにセンブリ(千振竜胆) の小さく可愛い花が全盛であった。ここ福島県では登山道沿いや田んぼのあぜ道など の日当たりのよい場所でセンブリリンドウをよく見かける。花弁は5枚で白か薄紫の小さ な先の尖った星型の花がスプレー状に咲く。花びらには薄っすらと細い縦じまが付いてお り、可愛いだけでなく上品で凛とした雰囲気が漂う。英語名は「evening star」と呼ぶら しいが、外見からは英語名の方が相応しいように思う。花言葉は「安らぎ、余裕、はつら つとした美しさ」である。
センブリはご存知の通り薬草として有名である。秋に花が咲いたら根ごとさっと軽く水 洗いしてよく水気をとり日干しでよく乾燥させる。この乾燥させたセンブリをお湯で煮出 して胃腸の薬とする。千回煮出しても苦いので「千振」という名前が付いたとも言われる くらい苦い。福島県では「当薬(トウヤク)」という呼び名の方が一般的なくらい薬とし ての効能が素晴らしい。
もう7〜8年前だろうか、体質的な面と細かい神経を使う仕事柄、私は胃腸を壊すこと が多かった。それをみかねて職場の同僚がわざわざセンブリを摘んできて乾燥させたもの を私にくれた。私はそれを有難くいただき、自宅に帰って煮出したがその苦さに何日も飲 み続けることはできなかった。その同僚は仕事が合わなかったのか3年程前に退職するこ とになった。長年辛苦を共にした人が居なくなるというのは寂しいものであるが、間もな く同業他社に就職が決まったということを聞き嬉しく思った。頭脳明晰で人間性豊かな彼 の新天地での活躍を少しも疑わなかったが、それから1年程して訃報がもたらされた。そ の彼が出張先で自殺したという。我が耳を疑ったが、紛れもない事実であった。いわき市 からは車で3時間程かかる彼の自宅へ伺った。迎えてくださったのは奥様であった。彼の 遺骨に手を合わせ、「いったい何があったの?」と語りかけたが、もちろん返事などない。 冷静沈着な彼のこと、余程の事があったのだろう。結婚して間もない奥様は悲しみを必死 にこらえている様子であった。奥様に彼からセンブリをいただいたことがあるという話を すると、結婚前に彼とのデートでセンブリを摘みにいったことがあるとの返事。私は涙を こらえきれなかった・・・。
秋晴れに 誘われて行く 里山で 亡き君偲ぶ センブリの花
慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
立春を過ぎたある日、私はホームゲレンデのように何度も登っている低山に足を運んだ。 その日は快晴で空気が凛と澄み渡り、独立峰の山頂からの展望が楽しみであった。この時 期、登る人の少ない登山道は前日の雪で20cm程度の新雪が積もっており、杉林の中の 日の当たらない登山道は標高の割りに結構寒く滑りやすい。注意しながら慎重に登り着実 に高度を稼ぎもう一息で山頂という辺りまでくる。もうすぐ360度の大パノラマを心ゆ くまで堪能できると思うと足取りが軽くなる。
しかしそんな思いを抱いた直後のこと、突然目の前に登山道に倒れている男性の姿が飛 び込んできた。低山ののんびりした登山が一変緊迫したものに変わった。傍には女性が1 名付き添っておられた。その女性に話を聞くと男性は単独登山のようで自分の他に2名の 登山者が少し前に通りかかり、ここからはそれほど遠くない山頂までヘリを迎えに行って いるとのこと。倒れている男性の顔面は蒼白で唇は紫色になっており急を要する状態であ ることは素人にも分かる。私もここに残り、取り急ぎ自分の上着を男性に掛けて救助隊を 待つことにする。待っている間の一分一秒がとても長く感じられる。男性の苦痛の表情に 何処か痛いのか問いかけると、「お腹が痛い」「寒い」との返事。「暖かい飲み物があり ますが、飲みますか?」と再び問いかけると頷かれた。私はリュックから水筒を取り出し 今朝煮出して入れてきた「よもぎ茶」を男性の口に運んだ。男性は横になったまま少量だ が何度かお茶を飲んだ。
20分程だろうか、暫く待つと倒れている男性の携帯電話が鳴る。身動き出来ない男性 に代わり電話にでると救助隊からであった。もう直ぐ到着予定とのこと。念のため現在地 と携帯用GPSに示された緯度と経度を知らせ到着を待つことにする。暫くするとヘリの 音が聞こえ始め、少しずつ大きくなってくるのが分かった。私は杉林の中で上空がほんの 少しだけ開けた所まで100m程登り必死に両手を大きく振る。ようやくこちらに気づい たらしくホバーリングに入り拡声器でなにやらこちらに話しかけてくるがローターの爆音 や暴風と重なり聞き取れない。それから暫くして数名の救助隊員がヘリからロープで降下 しはじめる。私は男性の倒れている所まで案内する。まもなく地元の消防団員5〜6名と 山頂でヘリを待っていた登山者2名も駆けつけた。下の登山口には救急車が待機している ので消防団員の方がそこまでストレッチャーで運ぼうとするが、雪で滑りやすい斜面に5 0m程下った所で断念する。どこか開けた所を探しヘリで運ぶしかないが、幸い近くに1 0m四方程度の開けた場所が見つかりそこからホバーリングのヘリへストレッチャーごと 引き上げることが出来た。私たちは男性の乗ったヘリが遠ざかるのを無事を祈りながら見 送った。その後下山して各自の帰路についた。
それから数日して一本の電話が入った。あの山で倒れていた男性の奥様からであった。 「お元気になられましたか?」と思わず間髪置かずに問いかけた。「大変お世話になりま した。実はあの後搬送先の病院で心筋梗塞で亡くなったんです。主人も皆様に付き添って いただき大変心強かったことと思います・・・」言葉を失った。同時にあの時のご主人の 顔が目に浮かんだ。いつもは夫婦二人で登るのだがたまたま自分の都合がつかず一人で行 った事や、心臓にはいままで全く異常が無かった事などをうかがった。後日、奥様よりご 丁寧に手紙までいただいた。ご主人はストレスの多い職場で働いておられたがもうじき定 年で、定年後はご夫婦で思う存分好きな登山ができることを楽しみにしていらしたそうで ある。
結果として私が口に運んだ「よもぎ茶」が末期の水となった。あの時ほかに何か出来る ことがなかったのか自責の念にかられるが、冷え切った体を少しでも温めてもらえたのが 幾分の慰めである。近年は中高年の登山ブームで定年後の登山を悠々自適に楽しんでおら れるご夫婦をよく見かけるが、その度に胸中をよぎる出来事である。
※「末期の水」について三浦雄一郎氏は青森県出身の著名な山岳スキーヤーで冒険家である。彼は1970年の 世界初のエベレスト大滑降、1985年の世界7大陸最高峰のスキー滑降を成功させた後、 2003年5月に世界最高齢(70歳)でのエベレスト登頂を果たした。また、彼の父で 著名な山岳スキーヤーで山岳写真家の三浦敬三氏も2003年2月に99歳でアルプスの モンブラン山系氷河でのスキー滑降に成功した。この二人の快挙は高齢者の驚くべき潜在 能力を世間に示した。まさにこれから急激に高齢化社会を迎えようとしている日本にとっ ては明るいニュースである。
先日、福島県内の山に登った時、東京に居た頃に三浦雄一郎氏と山岳会で同期だったと いう方と山中で偶然同行することになった。三浦敬三氏は雲の上の存在だったという。山 中での会話は都合3時間に及んだ。聞くと彼はここ10年間ほど週に3〜4日は20Km ほど離れた自宅からバイクで1時間近くかけてこの山へ登りに来ているという。御年71 歳。まだ意気揚々としている。失礼だがとても71歳のご老体とは思えない。日々の摂生 と鍛錬の賜物であろう。二人以外は誰も居ない静かな山中で山の話が弾んだ。山の話にな ると彼の口調がとても滑らかになった。「この山は小さいが山の全ての魅力が凝縮されて いる。沢登り、岩登り、尾根歩き、藪漕ぎ、縦走、雪山など。新緑の5月と錦秋の10月 はまさに自然の芸術。若い頃はあえて危険や困難に挑むような登山をしていたが、今は自 然を楽しみながらゆったり歩く登山をしている。それが日本の山にはふさわしい。」と言 いながら岩場などの難場も手馴れた感じで越えていく。私も後をついていくのだが、なか なか俊敏な動きである。引き締まった肉体は全く老いを感じさせない。
「最近は主にこの山で植生調査と清掃活動をしている。この山にはブナの原生林がある んだが絶滅の危機に瀕している。この山のブナを守りたい。ブナの大木もいずれは倒れ、 倒木更新が起こる。それが命の連鎖というものだ。しかし、この山の自然破壊は想像以上 に急激に進んでいる。入山者があまりにも増えて登山道の痛みも激しい。盗掘も後を絶た ない。」彼は数年前から自然保護員(パークレンジャーの活動支援)をボランティアでし ているという。「最近の中高年の登山者はマナーが悪くて。平気でゴミを捨てたり、登山 道を外れたり。こっちのお願いすることにも耳をかそうとしない。困ったものだ。」彼に とっては山とは日常なのか非日常なのか。そんなことを考えていると、「山に入ると肩書 きは関係なくなる。医者だろうが政治家だろうが社長だろうが部長だろうが平社員だろう が○○さんでいいんだ。山にきて日常の愚痴をいっている人を目にするけどそれはいかん。 山に入ったら気持ちを切り替えて非日常の世界に浸りきるんだ。そして偉大な自然の前で ちっぽけな一人の人間として謙虚な気持ちで自分を見つめ直す。それが山に対する礼儀と いうもんだ。」どうやら彼にとって山は毎日のように来ても「非日常」であるらしい。
そういう彼も少しだけ自分の身の上話を語ってくれた。戦前は父親が中国の満州鉄道の 職員で何不自由ない暮らしだったが、戦後、日本に引き揚げて来た時は無一文で、耐乏生 活を余儀なくされたそうである。しかし彼には登山があった。定年後、関係団体や諸官庁 と渡り合って、山のガイドブックのルート図に名前が記載されるほどの一本の登山道をた った一人で切り拓くまでになる。現在、この山に入山する登山者にとってこの道は無くて はならないものになっている。「この山の一番いい眺めの道を登山者の皆さんにも手軽に 楽しんでもらいたいと思って。一日費やして1mしか進まないこともあった。しかし、最 近はマナーの悪い登山者とオーバーユースの為に登山道の洗掘化と拡幅化が進み、登山道 沿いの自然も傷み始めている。この道を造って良かったのか自問自答することがある。」 彼の口調は少し重くなった。一本の道が出来るとその道は造った人の手を離れ、一人歩き を始める。我々登山者一人一人がマナーを守って登山道を使わなければならない。
生・老・病・死は誰も避けることができないが、彼の若さと元気の秘訣は一体どこにあ るのだろうか。何が彼をそこまでさせるのだろうか。男女雇用機会均等法で性別による就 労制限は少なくなったが、いまだに定年制度を初めとする年齢による就労制限が幅を利か せ、やる気と能力があるにもかかわらず職に就けない熟年者が多い現在の日本の雇用慣習 では真の意味での生涯現役社会の実現は困難を極めるが、そのような逆境をものともせず に生涯に渡り自己実現に向けて夢と希望を持ち続けて夢中に生きるということにつきるの だろうか。かなり以前になるがNHKのプロジェクトXという番組で、VHSの生みの親 でMr.VHSといわれ、昭和40年代後半〜昭和50年代にかけて低迷していた日本ビ クター株式会社をビデオ事業部(横浜工場)の300名近い従業員や協力企業と共に一躍 すばらしい企業に建て直された高野鎮雄氏が社員を前にした退任の挨拶で「皆さん、何で もいいから夢中になれるものを持ってください。夢中になれるということは素晴らしいこ とです!」と語られていた。高野氏は退任の2年後の平成4年に鬼籍に入られたが、人生 を最期まで真摯に生きた人だから言える言葉である。真摯に生きた人の言葉だから心肝に 響いてくる。私がとある山中でお会いした彼も間違いなく「夢中になれるもの」を持って いる。そして真摯に生きている。そう感じた。山や登山が好きで、その好きな事、成し遂 げたい事に対する思いが日々のたゆまぬ摂生と自己管理に繋がり健康を維持している。健 康法のための健康法ではない。ある意味で健康を超越しているのである。
登山口付近まで下山した所で我々は沢の水を飲んだ。「ここの水を毎日飲んでいたら1 00歳までは間違いなく生きられる。」彼の言葉を聞くと本当にそう思えてくる。彼はこ の山から生命力を分けてもらっているのかもしれない。駐車場でその方とは別れたきりだ が、彼は今もあの山に登って夢中になって植生調査や登山道の補修や清掃を行っているに 違いない。岳翁との一期一会の貴重な出会いであった。
最後に1935年(昭和10年)に日本山岳会第三代会長に就任した木暮理太郎氏の有 名な言葉をご紹介したいと思う。彼は秩父や奥利根の未踏の山々に挑んだり、槍ヶ岳から 立山までの縦走を行うなど、明治〜大正〜昭和初期に活躍した近代アルパインスタイルの 先駆者であるとともに、山の歴史や山岳信仰にも造詣が深い人である。
『私達が山に登るのは、つまり山が好きだから登るのである。登らないではいられないか ら登るのである。なぜ山に登るか、好きだから登る。答えは簡単である。しかしこれで十 分であるまいか。登山は志を大にするという。そうであろう。登山は剛健の気性を養うと いう。そうであろう。その他の曰く何、曰く何、皆そうであろう。ただ私などは好きだか ら山に登るというだけで満足する者である。』
=「日本アルプスと秩父巡礼」より=
深山幽谷の山々に登ったときに神々が宿るような神聖な空気を感じた方も少なくないと思う。
西欧ではあまり見られない自然崇拝という日本人独特の精神性は文化や社会風習として長い年月
に渡り世代を超えて受け継がれてきた。かく云う私も自然を眼前にすると畏敬の念を禁じえない
者のひとりである。
我々日本人は有史以前から山々を神霊が宿る聖域として崇拝してきたのはご承知のとおりであ
るが、奈良・平安時代になると大陸からの仏教の伝来とともに、険峻な山々で修行を行うことで
仏の境地に近付くという山岳仏教が盛んになる。さらに道教や儒教・禅の思想と融合して山中で
修行を行う修験者や仏教の枠にとらわれないで厳しい自然の中に身を置くことで智恵を習得しよ
うとする山伏に代表される山岳信仰が日本全土に広まり、平安時代には天台宗と真言宗という二
大宗派の影響のもとで修験道として体系化されていった。この頃が山岳信仰の確立期といってい
いと思われる。
山岳信仰は江戸時代に入ると一般庶民にも受け入れられるようになり霊場巡りとして社会風習 化された。山頂や山麓には神社や祠がつくられ家内安全、五穀豊穣、商売繁盛を願う人々が参拝 に訪れ、山々も神聖な場所として地元の人々に畏敬の念をもって大切にされた。東北では山形県 の出羽三山の一つである湯殿山のご神体である湯の湧き出る巨大な岩が有名だが、福島県では霊 山(りょうぜん)や飯豊山、地元いわき市では二ツ箭山などが有名である。霊場巡りの結果とし て産業や文化の交流も促された。しかし、明治時代になると神仏分離政策や西欧的価値観の影響 を受け、また大正時代になると近代アルピニズムの考え方も広まり、隆盛を極めた山岳信仰は徐 々に衰退していった。福島県の中心に横たわる吾妻連峰の一切経山の基部に浄土平という場所が あり春から秋にかけて湿原では美しい花々が咲き誇る。一切経山はその昔空海和尚が山中に一切 経を埋めたと伝えられる福島県の山岳仏教の中心的な場所のひとつである。いにしえの人々はま さにこの場所に極楽浄土を夢見たのかもしれない。現在は一大観光地となっており隔世の感が否 めないが、日本人として自然への畏敬の念だけはいつまでも忘れずに持ち続けたいものである。
最後に特筆しておきたいことは、現在でも一部地域には霊場や山岳信仰が残っており、組織や 個人での活動も行われ、そのような地域では森や山々が無秩序な開発から守られ原生に近いその 土地の気候風土に合った本来の自然が残っているケースが多いということである。筆者の地元い わき市の二ツ箭山でも周囲の山々が植林や開発で次々と姿を変える中にあって、この山だけは原 生の自然が残っている。周辺住民にとってはまさに鎮守の森のような存在になっているが、これ も地元の人々がこの山に対して畏敬の念を持ち続けてきたからに他ならない。世道人心が軽んぜ られる昨今、将来に向けて今まで日本人が大切にしてきた山岳信仰の心と近代アルピニズムそし て資本主義社会における経済活動等が止揚することを切に願う次第である。
登山中に虫に刺されて、楽しいはずの登山が不快で辛いものになってしまった方もいらっしゃる と思います。入山する山域の害虫についての事前調査と適切な服装、軟膏や消毒液、防虫スプレー などの携行、刺された時の的確な応急処置で安全で快適な登山にしたいものです。
1.蚊(カ)
生態
・春〜夏にかけて主に発生する。
・山地の森林地帯や渓流沿いに主に生息している。
・吸血するのはメスの蚊。
症状
・刺された直後に円形または楕円形に赤く腫れ、痒みを伴う。
・腫れの大きさは数mm〜数cmだが稀に化膿することがある。(蚊の種類や個人差で異なる。)
・吸血時の血液凝固を防ぐために注入される唾液が症状を引き起こす。
処置
・腫れと痒みがある場合は、市販の虫さされ薬を塗る。
(腫れと痒みが強い場合は、抗ヒスタミン含有ステロイド軟膏を塗る。)
・痒くなってもかかない。とびひなどの水泡がみられる場合は抗生物質の塗布または内服。
・症状が酷い場合は早目に医療機関で診てもらう。
予防
・虫除けスプレーを時々噴霧する。
・肌を露出しない。長袖・長ズボン・帽子・ネット・手袋など。
2.蚋(ブヨ、ブユ)・虻(アブ)
生態
・夏に主に発生する。
・山中の水場や湿地、渓流、キャンプ場に生息。群れで襲撃されることが多い。
ブヨ:主に春〜夏にかけて発生する。体長3〜5mm程度の黒い小さなハエのような虫。
アブ:主に夏に発生。体長は5〜20mm程度。(通称:オロロ、メジロ)
・吸血時の血液凝固を防ぐために注入される唾液が症状を引き起こす。
症状
・蚊と違い皮膚をかじって血液を吸うので、チクッという痛みを感じる。
・ひどい場合はかじられた箇所から出血がある。
・時間とともに腫れて熱を持ち痒くなる。頭痛を伴う場合もある。
(翌日や翌々日の方が腫れる。顔や首、関節などが特に悪化し易い。)
・1週間程度、痒さと痛みが残る。
・噛まれた箇所は、数週間〜数ヶ月間、跡(色素沈着)が残る場合がある。
処置
・刺された箇所の周囲をつまみ毒を出す。(ポイズンリムーバーを用いると便利。)
・患部を消毒し、抗ヒスタミン含有ステロイド軟膏を塗る。
(感染症がある場合はステロイドより抗生物質の使用が優先される場合がある。)
・痒くなってもかかない。
・症状がひどい場合は早目に医療機関で診てもらう。
予防
・虫除けスプレーを時々噴霧する。
・肌を露出しない。長袖・長ズボン・帽子・ネット・手袋など。
3.蜂(ハチ)
生態
・夏〜秋にかけて主に発生する。
・標高の低い山地の森林地帯や草地。(標高の高い所には生息する種は少ない。)
症状
・刺された直後に激痛がある。しばらくして円形または楕円形に赤く腫れる。
・大量に刺されたり、過去に刺されているとショック反応を起こす場合が稀にある。
(刺されてから30分後頃に呼吸困難や血圧低下、吐き気など体調に異変が起こる)
処置
・蜂にさされない安全な場所に避難する。
(助けようとした人が刺されることのないよう二次災害に気をつける。)
・近くに医師がいればその人の指示に従う。
・刺された人の不安感を除去するように努める。
(蜂毒よりも精神的な不安から具合が悪くなる場合がある。)
・毒針が残っている場合はピンセットで慎重に取り除く。スズメ蜂は針が残らない。
(毒嚢に注意する。針の一部が折れたりして残らないように気をつける。)
・刺された箇所の蜂毒を除去する。
蜂毒は水に溶けやすいので流水を当てながら患部の周囲をつまみ出すか又は吸い出す。
(ポイズンリムーバーがあれば便利。)
・患部を消毒し、抗ヒスタミン剤とステロイドが配合された市販薬を塗る。
(アンモニアは効果なし)
欧米などでは急激な血圧降下時の応急処置用にエピネフリン剤(ボスミンなど)の
携帯用自己注射キットの使用が認められているが日本ではまだ認められていない。
・患部を清潔な濡れタオルなどで冷やす。
・手足の場合、患部より心臓に近い部分を包帯等で軽く締めつける。
(蜂毒が全身に回るのを遅延させる。強く締め過ぎないこと。)
・直ちに下山し、最も近い医療機関で診てもらう。
(状況によっては携帯電話や無線等で救助隊や救急車・ヘリの出動を要請する。)
予防
・蜂を刺激しない。(巣には近づかないようにする。ゆっくりした動作で離れる。)
・花柄や黒い色を好む習性があるので、無地の白っぽい色の服装をする。
・肌を露出しない。長袖・長ズボン・帽子・ネット・手袋など。
・ディートを忌避剤とする市販の虫除けスプレーは効果がないので注意。
4.ダニ
生態
・6月頃〜9月頃に主に発生する。(マダニ。通称:笹ダニ。)
・チシマザサなどの笹薮などに生息し体長は直径3mm前後の小さなクモのような虫。
・すぐには吸血せず、しばらく皮膚や衣服の中を動き回る。
症状
・皮膚をかじって血液を吸うので、チクッという痛みを感じる。腫れや痒みは少ない。
・首や胸、腹、尻、腋の下やももの内側などの皮膚の柔らかい部分に付いて吸血する。
・痛みに気づかない場合は、「こんなところにホクロかイボが突然?」という程度。
(帰宅して風呂などに入ってから発見されることも多い。)
・吸血後のダニは体長2〜3倍程度に膨れ上がる。
処置
・ダニの口が皮膚の中に残らないよう根元から指ではなくピンセットでつまみとる。
(しぶとい様なら、ライターやタバコの火を近づけて様子を見る。無理はしない。)
・患部をよく消毒する。炎症がある場合は抗ヒスタミン含有ステロイド軟膏を塗る。
・ダニの口が皮膚に残っている可能性がある場合は早目に医療機関で除去してもらう。
(かゆみがある場合は口が皮膚に残っている可能性がある。)
・頭痛や高熱がある場合は「ライム病」感染の可能性もあるので医療機関へ行く。
予防
・なるべく藪漕ぎはしない。
・虫除けスプレーを時々噴霧する。
・肌を露出しない。長袖・長ズボン・帽子・ネット・手袋など。
・休憩時や藪漕ぎ後、入浴時などにお互いチェックする。(自分一人では見つけ難い。)
・体だけでなく、衣類やタオル、リュック等のチェックも忘れない。
少し前のテレビ番組で「ファーストフード」に対して「スローフード」という 従来の手間や時間をかけた食事スタイルの良さが見直されてきていることが報道 されていた。その時に、そういえば私の最近の山登りは早足で登りそして山頂を 踏んだら少しだけ休憩してまた早足で下山するという言ってみれば「ファースト 登山」が多いことに気づかされた。山頂に立つことで達成感や爽快感を味わうの は登山の大きな魅力の一つだが、考えてみればピークハントだけが登山ではない。 刻々と変化し一日として同じ姿を見せないといっても過言ではない自然。驚異と 神秘と感動を与えてくれる自然。その自然の中に入り、木々の木肌に触れたり、 草花を観賞したり、野鳥や虫の鳴き声に耳を傾けたり、山間を通りぬける風の匂 いや湿り気を感じ取ったり、途中の景色を楽しんだり・・・。 山頂に着くまでの過程に存在する様々な魅力を全身で感じ取れる「スロー登山」 を自分の登山スタイルの一つとして取り入れることで、一層楽しく充実した登山 になることを今更のように再認識した。様々な制約の多い現代社会では言うは易し であるが先ずは次の二つを意識した山登りをしたいと考えている。
2002年に発覚した尾瀬での山小屋による不法投棄はとても悲しい事件でしたが、 登山中に林道を歩いていると林の中や谷底に粗大ゴミや産業廃棄物と思われる物を見 掛ける機会が確実に増えてきました。不景気が続き、家電リサイクル法が施行されて からは特にテレビやエアコン、冷蔵庫など家庭のゴミも増えてきたように思います。 不法投棄といえば香川県の豊島の例が有名ですが、残念ながら筆者の住む福島県いわ き市でも規模は大小様々ですが陰に陽にかなりの不法投棄が増えてきているように思 われます。首都圏で発生したゴミを大型ダンプで堂々と投棄していく業者から、マイ カーでテレビや冷蔵庫を捨てにくる一般の人まで様々。手口も悪質かつ巧妙・組織的 で、不法投棄してからその上をきれいな残土で覆うケースもあると聞きます。筆者の 地元いわき市の例を挙げると次のような事件があります。
山林や田畑などの土地の所有者は法律上の管理責任もあるので、たとえ遠く離れて いるとしても時々は自分の土地やその周囲を確認する必要があると思われます。我々 登山者も不法投棄は絶対に許さないという意識をより一層強めなければならない時勢 となったようです。
■不法投棄(処理)を疑うケース
■不法投棄(処理)の疑いがある場合の連絡先 ( 福島県内の一例 )
「山で残していいのは足跡だけ」といわれますが、最近は山中でのゴミが目立ちます。聞くところ によるとエベレストを初め世界的に有名な高峰にも使い切った酸素ボンベや空き缶、残飯などのゴ ミがベースキャンプ地点や山中に捨てられてあるようです。過去に登頂に成功して名を残した人々 や登山隊の中にもそのような最低限のマナーを守らない人間が存在したということが残念でなりません。
さて、福島の山々に目を向けると、特に目立って見苦しいのは休憩場所や登山道の周辺に白く残 っている使用済みのティッシュです。特にポケットティッシュは自然分解されにくい為に土壌環境 によっては何ヶ月或いは何年もそのままの状態で残ります。トイレが設置されている山の場合、な るべくそこまで我慢をするべきですが、突然の生理現象の場合は山中での「雉打ち」も仕方ありま せん。その場合は地面に穴を掘ってバクテリアを活用して自然分解させるのが現時点でのアウトド アの最低限のマナーです。しかし、尿については雑菌などの汚染が少ないことと蒸発分解が比較的 早く行われるのですが、便の方は寄生虫や病原菌を山中にばらまき、登山者が山中で喉を潤す清水 や水道水の源流を汚染しかねないという問題が残ります。またトイレまで我慢して用を足したとし てもそのトイレに問題があるケースも少なくありません。山小屋の中には浄化機能をもったトイレ を備えつけたり、汚物を屎尿処理施設へ運んで処理を行っているところもありますが、山中に垂れ 流したり地中に滲みこませたりしている小屋も少なからずあるのが現状と聞きます。さらに悪いこ とにはトイレの汚物槽の中に屎尿以外のお菓子のビニール袋や弁当の容器、空き缶、衣類などが捨 てられている悲しい現状を多く見かけるようになっています。これらの問題は登山者自身の意識や 山小屋の管理者の努力はもちろんですが、コスト面や技術面・強制力を考えると、国や県・地元自 治体・各種関係団体なども協力して早急に対応策を考えるべき問題です。経済面では先進国の仲間 入りをした日本ですが、自然利用面と自然保護面では相変わらず後進国といわざるをえない現状に 胸が痛みます。今後は自然の回復能力を超えたオーバーユース地域など、場所によっては使用後の ティッシュやペットの糞と同様、人間の便の持ち帰りも本腰を入れて検討しなくてはならない時代 となったように思います。一部山域では便と尿両用の携帯トイレの配布等を試験的に始めたところ もあるようです。このような取り組みが多くの山域で行われることを望みます。
ちなみに、私が実践していることは、「雉打ち」で使用したティッシュでも山中には捨てないで 自宅まで持ち帰えり燃えるゴミとして処分するということです。初めはこの程度のことでも少し抵 抗がありましたが慣れるとそれが当り前になりました。これからも自然への畏敬の念を忘れず自分 の出来ることから少しずつでも実践していく必要があると考えています。
ここ2〜3年、福島県の山々でも犬や猫などのペットを連れて、それもノーリードで登山(入山) する方を見掛ける様になりました。私自身は犬や猫は好きな方ですが、それでも登山中に犬が突然 目の前に現れて吠えられてびっくりしたことが何度かあります。 ペットの糞尿も回収せずそのままに放置する飼い主や、登山道や木道から外れて遊び回り 貴重な高山植物を平気で踏みにじったり水場を荒らしている訓練されていない犬や猫を見かけます。 このままでは人間だけが入山していた頃よりもさらに早く自然の生態系を壊してしまいかねません。 人類も他の生物と同様に地球の生態系の一部であり、生態系が壊れたり変ったりするということは 人類の生存に大きな影響を与えることは今更いうまでもありません。ペット連れの入山を規制する所も 増えているようですが、規制していない山であっても最低限のマナーだけは守って欲しいものです。
登山靴のソールが経年劣化により突然剥がれたり、冬山用プラスチックブーツ・スキー用ブーツ の突然破壊が起こることは以前から言われているが、筆者が8年程愛用しているイタリア製の皮製登山靴も 登山中に突然ソールが剥がれた。 夏山の気象条件の良い日だったことと、登山口に降りてくる直前だった為に被害は 最小限ですんだが、これが冬山などの条件の悪い時だったら命にかかわる問題である。 ソール剥離の原因はミッドソールに使われているポリウレタン の劣化が原因。ポリウレタンはウレタン結合と呼ばれる部分が湿度による加水分解や 紫外線による化学変化を起こし易い高分子化合物で、エステル系とエーテル系がある。近年は高価だが 劣化しにくいエーテル系が主流となりつつあるそうだが、登山前の登山用具の点検には細心の注意を払い、 安全で楽しい登山にしたいものである。